【5/18 添削④回目 ↓ ↓ ↓ 】
はじめまして。
がんばりすぎて疲れた心を整え、自分らしく幸せに生きるための 癒しと再生の《やさしさ循環カウンセラー》穏葉-otoha-です。
1967年生まれ。東京の西の方、自然豊かな地域で生まれ育ち生活の基盤もずっと同じ地域です。
一姫二太郎子育てを終え、長女は近隣で独立、社会人の長男と夫と3人で暮らしています。
育児のこと、家の中でのこと、介護のことや仕事のこと…
気付けばいつも支える側の人生でした。
だって、「私がやるしかない」と思い込んでいたから。
でもある時「もうだめだ…」と思いを口にできた時、心がふぅっと軽くなったのです。
はじめての感覚でした。
私がカウンセラーとして歩むようになるまでの悩みや葛藤、どんな想いで家族支援を続けてきたのか…
長いプロフィールとなりますが記してみます。
今このページに目を止めてくださったあなたに、これからの何かしらのヒントがありますように。
~目次~
①「そこに私は居ちゃダメなの?」
川の字で眠る家族を見つめていた幼少期。
②「ごめんなさい」と鍵のかかったドアを叩き続けた小学2年生。
ほんとうは、優等生になんかなりたくなかった。
③我が子を預け、よそ様のお子さんをみる。
その葛藤を、飲み込んで働いていた。
④30歳、2児の母。
「え…何これ。」
長女の“10円ハゲ”を見つけ、立ち止まった日。
⑤父との別れ、そして義母の介護。
30代半ば、命に向き合う日々が始まった。
⑥「行っちゃうの…」
その言葉を背中に、私は家を出ていた。
⑦「1人で頑張らなくていいんだ」
その気付きが、人生を変え始めた。
⑧自分へのやさしさは、必ず誰かへ循環していく。
①「そこに私は居ちゃダメなの?」
川の字で眠る家族を見つめていた幼少期。
口数は少なくも優しい、そして曲がったことが大嫌いな父と、働きながら家のことをしっかりこなす保育士の母との間に生まれ育ちました。
地域は人と人との繋がりが濃く、思いやりにあふれた”昭和的コミュニティ”。
周りは専業主婦も多かった環境でしたが、自分の母は忙しくフルタイムで働いていました。
お母さん、お仕事もしてお家の事もしてすごいな!と思う反面、寂しさも抱いていました。
ある日、熱で学校を休んだ日のことです。 いつもより広く感じる自宅で一人横になっていると、時々様子を見に来てくれたのは”近所のお母さん”でした。
子どもながらに有難さを感じつつ、でも同時にとても寂しくて、1日が長く感じて「明日は無理をしてでも学校に行こう」と布団を被り、ひとり誓ったことがあります。 母は、忙しくなかなか休みが取れなかったのでしょう。
年が離れた7つ下に妹ができ、”小さなママ”を喜んで担っていました。
でも、厳しくしつけられた私の時とは全く違う妹への溺愛ぶりに不公平感も抱いていたのです。
父母妹が3人で眠り、私は一人で寝てねと電気を消された隣の部屋へと促される…
就寝時に母に絵本を読んでもらった記憶や、一日の出来事を話せるような雰囲気はありませんでした。寝付けない日にそーっとふすまを開けて隣の部屋を覗いてみると、川の字でニコニコしている母と妹の顔が目に飛び込んで来て、見てはいけないものを見てしまったようないやーな気持ちになりました。
今でも忘れられない光景です。
②「ごめんなさい」と鍵のかかったドアを叩き続けた小学2年生。
ほんとうは、優等生になんかなりたくなかった。
ワンオペでいつも忙しそうだった母。
普段は優しい母でも、私が母の思うように行動できなかったりすると、”切れる”時がありました。「押し入れに入っていなさい」「ベランダに出ていなさい」と居心地の良いはずの室内から遮断され、どうしたらいいのやらただただ不安な時間を過ごさざるを得ないということが度々起こっていました。母の怒りのスイッチがよくわからずに恐怖感ばかりが膨らんでいきました。
小学2年生のある日、約束した帰宅時間に数分遅れてしまったら、家に入れてもらえず、鍵のかかったドアを叩きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し謝っても返答は一切無し…。
その様子に気付いた友達がドアの外で一緒に謝ってくれ、ようやくドアを開けてくれました。
でもドア越しに目に入った母の表情は、”(友達を連れてくるなんて)しようがないわね”といった感じ…その時の母の顔が忘れられません。
何より、友達にそんなことをさせてしまったという罪悪感と、放り出された時の孤独感は、心に大きくのしかかりました。
また、夏の課題で花の水彩画を描いて母に見せた時には、 「何これ?せっかく買ったこのお花、よく見て描いたの?」と突き放すように言われました。 大きなショックでした。 この程度じゃ、認めてもらえないんだ…と、完璧を求められる中での緊張感や孤独も感じていました。
このような経験は、なるべく母が機嫌よく過ごせるように、いわゆる”良い子”でいよう。
私が良い子でいれば、恐怖を味合わなくて済む、家庭内も平和になる…という思いを強くさせ、「良い子でいれば平和が保たれる」という価値観が形成されはじめたのだと思います。
いつしか常に頑張ることがデフォルトとなり、学校では成績優秀、模範的な生徒として教師からの評価も得ていました。
成績表に「知徳体そろった優等生」と書かれ、その時の母の喜びようが忘れられなかった私は、 思春期を迎えても ”自分のしたいこと”より、 ”母の喜ぶこと” が、物事に取り組む基準となっていました。
部活の帰りにはみんなと買い食いしたかった。 (先生にバレたら、母からなんて言われるだろう…)
バイトをして自由にお金を使ってみたかった。 (「勉強して、部活してたら、バイトする時間なんて無いでしょ」と母の声が聞こえてくる)
他愛もないことですね。 でも、自分の気持ちを封じ込めてでも、 母に切れられたくない、母に認められるには、を優先している自分がいました。
ほんとうは優等生になんかなりたくなかったです。
③我が子を預け、よそ様のお子さんをみる。
その葛藤を、飲み込んで働いていた。
念願の保育士となり、子ども達の成長に携われる毎日に喜びを感じる日々でしたが、現場は想像していた以上にハードでした。
保育士としての経験を積み、クラスリーダーや主任補佐など責任ある立場を任されるようになってきますが、子どもの命を預かっているという責任感の重さ、保護者対応・同僚関係、行事準備など多忙を極め、理想と現実のギャップに直面します。
知り合いに職業を聞かれた際に「保育士です」と答えると、 「うわぁ、いいね!子どもと遊んでいるだけでお給料もらえるんだもんね」と言われた時には、 「はぁあ?!」と怒りが込み上げました。
プライベートでは結婚、出産を経て母親になりました。 産後2か月半で職場復帰し、何とか日々を回していました。
でも、ほんとうはまだ首も座っていない我が子を預け、よそ様のお子さんをみているという葛藤が生まれ始めていたのです。
かわいい我が子の赤ちゃん時代、もっと自分がゆっくり関わりんだと。
でも、この本音は”叶わないもの”と諦めていました。
④30歳、2児の母。
「え…何これ。」
長女の“10円ハゲ”を見つけ、立ち止まった日。
30歳で第2子を出産し、この時も産後2か月半で復帰します。
この第2子の長男は喘息持ちでした。
夜間発作が出た時には、横になると胸がヒューヒューして苦しそうなので、抱っこしながらソファーにもたれ掛かり仮眠のような長い夜を過ごすことも多々ありました。
何より我が子の体調不良で休みをもらったり、早退することにはとても気を遣いました。 保育士1人が休むことは、どれだけ現場が大変になるか、痛い程わかっていたので余計に苦しかったのです。
少ない我が子との時間を大切に過ごしたい!
手作りの夕食を一緒に食べ、寝るまでの時間は子どもとの時間を最優先。
絵本タイムも欠かしません。
そして寝かしつけ時間は子ども達と共に寝落ちがお決まりに。電池切れです。
深夜に目が覚めた時の絶望感を何度味わったことか…
「あー、やることあるのに、また寝ちゃった。もうこんな時間か…」と、重たい身体を起こし、夜な夜な持ち帰りの仕事をこなす…それが私の日常でした。
保育士あるあるの、我が子とゆっくり過ごす時間が無いという悩みを抱えつつ、自分なりに育児も仕事家事もがんばろうと、葛藤しながら働いていました。
がんばっている自分も好きだったと思います。
母のように忙しくても、我が子のこともしっかり見ているんだという気持ちもありました。
しかし娘が年長さんになったとある日、愕然とした出来事が起こったのです。
いつものように娘の髪の毛を結おうとした時、「え?何??」…目に飛び込んできたのは信じがたい”10円ハゲ”。
この瞬間、グッと息が詰まり膝から崩れ落ちました。 「何、これ。」
時が止まり、目に見えていた周りの様子が一瞬で色を失った感覚でした。 今まで一度も感じたことのない感情、感覚… 膝を落としたまま言葉も発せられず、どれ位固まっていたでしょう。
がんばっているって?それって自己満足? 時間に急かされた生活、弟のお姉ちゃんで無理をさせたり、我慢を強いてきた結果なの? 「なんで…」 「どうして…」 「どうしたら…」 パニックで思考がグルグルして、涙が溢れはじめ止めどなく流れ落ちました。
そして 「今しかない、自分の子育てを大切にしたい」
「少し休もう」
そう心に決めたたのです。
娘の卒園と共に自らも保育園を卒園=退職、35歳でひとつの大きな節目を迎えました。
⑤父との別れ、そして義母の介護。
30代半ば、命に向き合う日々が始まった。
我が子との時間は宝物。 けれども社会との接点を求め医療事務資格を取得してパート勤務をスタートしました。
勤務先として選んだのは、大きめな小児病院の「小児血液腫瘍科病棟」や「NICU病棟」、小児科クリニック。 保育園から病院へと勤務先は変化しましたが、子ども達やママ達ご家族に関わっていきたいという深い想いは私の根底にあり続けていました。
働き方を変え、子どもとの時間を優先しながら穏やかに過ごしていけると思った矢先、身内に悲しい出来事が起こります。
父の持病が悪化し、入院し手術に挑むも術後数日後…
病院から急な連絡を受け集中治療室に駆け付けると既に意識を失い危篤状態だった父。
手を握るとぎゅーっと強く握り返してきました。
「この状態で手を握り返せることは無い」と看護師さんに言われたのですが、父の強い遺志が奇跡を起こしたのかもしれません。
「これからのことは頼むぞ。しっかり生きていけ。」と言われたと思いました。
「受け入れるしかない」と静かで熱い涙が流れました。辛かったです。
厳しかった母との関係を和ませてくれていた父との別れは大きく深い悲しみを伴いました。
程なく今度は同居の義母が病に倒れてしまいます。
検査、入院、手術、通院や生活の見守り、食事の提供。
日に日に弱っていきボケていく義母をギリギリまで自宅介護をしていました。
出勤前に夫と2人で掛かりで入浴させるのはかなりの負担でした。
子育て世代だった30代半ばでは、友達にも介護の経験者はおらず主人と二人で必死の日々でした。
命に向き合う日々でした。
「どうしてこんなに試練が続くんだろう」と思っていましたし、
父、義母のことは、保育士フルタイムからパート勤務にシフトするのがわかっていたかのようなタイミングで訪れた試練だったようにも思いました。
自分の人生に”終わりを意識する出来事”が続いていました。
⑥「行っちゃうの…」
その言葉を背中に、私は家を出ていた。
義母の看取りを終え、子ども帯も成長し少しずつ自分の時間が戻り始め、10年のブランクを経て保育現場に復職。
子育てに何かしらのしんどさを抱えているママが多いなと感じたことが転機となり、 保育士経験20年という節目でママに寄り添う支援を具体化するために、産後ドゥーラ資格を取得し独立しました。
そんな中、今度は実母が難病を発症し、見る見る間に介護生活がスタートしました。
ドゥーラの仕事と母の介護を両立していく日々がはじまりました。
午前の訪問(ドゥーラ)→実家(母のお世話)→午後の訪問(ドゥーラ)→実家(母のお世話)→ようやく帰宅。朝、自宅を出てから帰宅してはじめて腰を下ろせる時間が21時!というような日が続き、通い介護と仕事、自宅の家事もという過酷なルーティンを続ける中で、心身の限界を感じていました。
「きつい!でも、私しかやれる人がいない。私が頑張らないと!」
そう自分に言い聞かせ自らを奮い立たせていました。
そして更に追い打ちをかけるかのように夫の体調に大きな変化が…
病魔に冒されてしまうのでした。
朝起きると顔をゆがめて横たわる夫の姿。
その姿が視界に入る食事の時間、今までのように食べ物が喉を通っていきませんでした。
夫のことだけでなく、母のことも有る、仕事だってある。
「自分が倒れるわけにはいかない」と、 もはや味も感じない食事を無理に口に押し込んでいました。
「今度の休みはどこに出掛けようか」
「今日、こんなことがあってね…」
そんな何気ない会話はいつの間にか消え、
夫の口から出てくる言葉は、
「もう終わりだ」
「すべてを失った」
そんな絶望の言葉ばかり。
先のことを考え出すと、胸のあたりがきゅっとしたり、息苦しく感じたり…
「不安」
「怖い」
「どうすればいいの?」
家の中は笑顔も消え、先の見えない不安の中で私はただ必死に過ごしていました。
これまで当たり前だった日常が完全に崩壊し、
夫は思うように動けなくなり、 日によっては起き上がることすら難しい状態に。
入院や休職、そして再発を繰り返し、 長い時間が過ぎていきました。
食事を用意しても、 声を掛け目の前においてあげないと自分からは動けず食べることを試みることができない。
病の不安から「行っちゃうの…」と、か細い声を口にする。
そんな夫を家に残しながら 外へサポートに向かう日々は正直、
心が引き裂かれるような想いでした。
「もう限界だ…」
⑦「1人で頑張らなくていいんだ」
その気付きが、人生を変え始めた。
心身ともに疲労困憊していたある日、友人に”初めて”弱音を話しました。 すると 胸の奥がふっと軽くなったのです。 「あれ、なんだろう? この感覚…」
それまでの私は、何を頑張っていたのでしょう… 気心知れた幼馴染みにすら弱い部分を見せようとせず、 いつも聞き役に徹していたのです。
その時気付きました。
「1人で頑張らなくていいんだ」
誰かに話しを聞いてもらうだけで 心に余白が生まれまた前を向く力が湧いてくる。 完璧を求めすぎたり、弱音を吐けずに頑張りつづけてしまう今までの私を少しでも手放すことができた経験でした。
ただ、きつく厳しい現実に戻るとまた胸が苦しくなってしまいます。
・ここから、この先はどうしたら良いの? ・何か良い方法があるはず ・心の仕組みを知りたい!! と思うようになり、 たくさんある情報から行き着いたのは『カウンセリング』でした。
「カウンセリング、受けてみようかな」
今から思うと、 この決断こそが自分の人生を好転させたターニングポイントでした!
それまでの私は、 ・辛い、疲れたなんて、絶対に弱音は吐けない ・私がやるしかない ・周りの期待に応えないと と、いつも自分を奮い立たせ、弱音を吐いたら”負け”とさえ思っていましたが、
カウンセラーというプロの元では、 ・もっともっと自分の心を大切にすることの重要性や、大切にできる具体的な方法 ・考え方のクセを整えていく方法 ・心の境界線を意識し、誰かに振り回されない方法 ・潜在意識の特徴を知り、悪循環から善循環に入って行く方法 などなどを知りました。
そしてそれらさまざまな手法を取り入れ 自分の心と向き合うことで 自分の心は置いてけぼりだったことに気付くことができ、 考え方のクセを手放してみよう!と思えたのです。
そうして自分の心を受け止め、 心の安全基地を作っていくことを続けていくうちに 穏やかな時間を感じられるまでに変化が! 仕事をしながら親の介護、家族の病気…と 目の前の状況に変わりは無かったのに、です!!
母の介護は、 「母の所に行かなくちゃ」という ”行かねば”と、義務感のような気持ちはスーッと縮小し、 「次はどんなお楽しみプランを母に提示しようかな」といったように 母との時間を楽しいものにしようと前向きに捉えられるようになりました。 母も笑顔が増え、飲んでいた薬さえ減りました。 そうなってくるともう「行かなくちゃ」という”~すべき思考”はどこへやら…
弱っている夫と過ごす時間も 胸の苦しみははぼ感じられなくなり、互いを尊重して過ごせるように変化しました。 一番の驚きは、夫の口から出てくる言葉でした。 「いつもありがとう」 「今度〇〇に行きたいね」と、 絶望の言葉から、感謝や希望の言葉へ。
「こ、これはすごい変化だ!!」 驚きです。
私が変わったから相手が変わった! 自分の心を大切にする。 先ずは自分に優しく。 そうできると私の心が癒されじんわりと温かい気持ちになり、 そのやさしさが循環し始めたのでしょう。
自分を大事にできることは 相手を大事にできることへの近道だったんだ!と 心のサポートの意義を実感していきました。
⑧自分へのやさしさは、必ず誰かへ循環していく。
そして自分に穏やかな時間が戻ってくると、 これまで出会ってきたママたちの姿を何度も思い出すようにもなりました。
・頑張りすぎてしまう人 ・一人で抱え込んでしまう人 ・頼ることが苦手な人
それはまるで、 過去の自分自身と重なる部分でもありました。
「さまざまな経験はカウンセラーへの道へと繋がっていたんだ」 「心に寄り添うサポートを届けていきたい」
そう思いカウンセリングについての学びを一層深め、 常に自分自身の心の指標としても用いつつ、 カウンセラーとして活動しています。
私はふとしたきっかけで”心の仕組み”を知りたいと思いました。 あの時、知ろうとしなかったら 今もため息の多い毎日を過ごしていたかもしれません。 無理してがんばり続け倒れていたかもしれませんし、 近くにいる”大切な人”に嫌な思いをさせ続けていたかもしれません。 (ゾッとします!)
小さな一歩やほんの少しの勇気で確実に 今や未来を変えられます! (ぜひ、体験して欲しい!)
自分の心に耳を傾け、 自分を受容しながら、 自分の考え方のクセを整え、 心の境界線を自分で設定していくなどしながら 「穏やかな毎日」を実感しましょう。
自分へのやさしさは必ず循環します。
1人では難しいかもしれません、 「穏やかな毎日」を取り戻せる人を増やしたい。
その想いを胸に寄り添わせていただきます。
これからもひとりがんばり続けて歩んでいきますか?
話しを聞いてみたい もう少し内容を知りたい 今の自分に合っているか聞いてみたい などと思う方は、是非「お試しカウンセリング」にお越しください。 お会いできますのを楽しみにお待ちしています。
〇お申込みボタン挿入〇
【5/12(火)提出 添削③回目 ↓ ↓ ↓】
はじめまして。
がんばりすぎて疲れた心を整え、自分らしく幸せに生きるための 癒しと再生の《やさしさ循環カウンセラー》穏葉-otoha-です。
1967年生まれ。東京の西の方、自然豊かな地域で生まれ育ち生活の基盤もずっと同じ地域です。
一姫二太郎子育てを終え、長女は近隣で独立、社会人の長男と夫と3人で暮らしています。
育児のこと、家の中でのこと、介護のことや仕事のこと…
気付けばいつも支える側の人生でした。
だって、「私がやるしかない」と思い込んでいたから。
でもある時「もうだめだ…」と思いを口にできた時、心がふぅっと軽くなったのです。
はじめての感覚でした。
私がカウンセラーとして歩むようになるまでの悩みや葛藤、どんな想いで家族支援を続けてきたのか…
長いプロフィールとなりますが記してみます。
今このページに目を止めてくださったあなたに、これからの何かしらのヒントがありますように。
~目次~
①母のぬくもりを求めるも、叶わなかった寂しい幼少期
②完璧を求められ頑張り続けた学童期、常に母の顔色を伺っていた私
③念願の保育士になるも、予想をはるかに超えたハードワークにつぶれそうな日々
④30歳で2児の母となる。働く母の葛藤が増す最中に起きた《長女の○○事件》で決意したこと
⑤パート勤務にシフトし程なく、命に向き合う日々。
⑥保育現場に復帰後、産後ドゥーラとなるも、新たな試練…家族の病と介護の現実
⑦心の内を吐露できた!そこから心理療法に救われはじめる
⑧今までの経験から導かれた、「カウンセラー」としての活動
①母のぬくもりを求めるも、叶わなかった寂しい幼少期
口数は少なくも優しい、そして曲がったことが大嫌いな父と、働きながら家のことをしっかりこなす保育士の母との間に生まれ育ちました。
地域は人と人との繋がりが濃く、思いやりにあふれた”昭和的コミュニティ”。
周りは専業主婦も多かった環境でしたが、自分の母は忙しくフルタイムで働いていました。
お母さん、お仕事もしてお家の事もしてすごいな!と思う反面、寂しさも抱いていました。
ある日、熱で学校を休んだ日のことです。 いつもより広く感じる自宅で一人横になっていると、時々様子を見に来てくれたのは”近所のお母さん”でした。
子どもながらに有難さを感じつつ、でも同時にとても寂しくて、1日が長く感じて「明日は無理をしてでも学校に行こう」と布団を被り、ひとり誓ったことがあります。 母は、忙しくなかなか休暇が取れなかったのでしょう。
年が離れた7つ下に妹ができ、”小さなママ”を喜んで担っていました。
でも、厳しくしつけられた私の時とは全く違う妹への溺愛ぶりに不公平感も抱いていたのです。
父母妹が3人で眠り、私は一人で寝てねと電気を消された隣の部屋へと促される…
就寝時に母に絵本を読んでもらった記憶や、一日の出来事を話せるような雰囲気はありませんでした。寝付けない日にそーっとふすまを開けて隣の部屋を覗いてみると、川の字でニコニコしている母と妹の顔が目に飛び込んで来て、見てはいけないものを見てしまったようないやーな気持ちになりました。
今でも忘れられない光景です。
②完璧を求められ頑張り続けた学童期、常に母の顔色を伺っていた私
ワンオペでいつも忙しそうだった母。
普段は優しい母でも、私が母の思うように行動できなかったりすると、”切れる”時がありました。「押し入れに入っていなさい」
「ベランダに出ていなさい」と
居心地の良いはずの室内から遮断され、
どうしたらいいのやらただただ不安な時間を過ごさざるを得ないということが度々起こっていました。母の怒りのスイッチがよくわからずに恐怖感ばかりが膨らんでいきました。
小学2年生のある日、約束した帰宅時間に数分遅れてしまったら、家に入れてもらえず、鍵のかかったドアを叩きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し謝っても返答は一切無し…。
その様子に気付いた友達がドアの外で一緒に謝ってくれ、ようやくドアを開けてくれました。
でもドア越しに目に入った母の表情は、”(友達を連れてくるなんて)しようがないわね”といった感じ…その時の母の顔が忘れられません。
何より、友達にそんなことをさせてしまったという罪悪感と、放り出された時の孤独感は、
心に大きくのしかかりました。
このような経験は、なるべく母が機嫌よく過ごせるように、いわゆる”良い子”でいよう。
私が良い子でいれば、恐怖を味合わなくて済む、家庭内も平和になる…という思いを強くさせ、「良い子でいれば平和が保たれる」という価値観が形成されはじめたのだと思います。
いつしか常に頑張ることがデフォルトとなり、学校では成績優秀、模範的な生徒として教師からの評価も得ていました。
成績表に「知徳体そろった優等生」と書かれ、その時の母の喜びようが忘れられません。
一方で夏の課題で花の水彩画を描いて母に見せた時に
「何これ?せっかく買ったこのお花、よく見て描いたの?」と言われた時のショック。
この程度じゃ、認めてもらえないんだ…と、完璧を求められる中での緊張感や孤独も感じていました。
③念願の保育士になるも、予想をはるかに超えたハードワークにつぶれそうな日々。
念願の保育士となり、子ども達の成長に携われる毎日に喜びを感じる日々でしたが、現場は想像していた以上にハードでした。
保育士としての経験を積み、クラスリーダーや主任補佐など責任ある立場を任されるようになってきますが、子どもの命を預かっているという責任感の重さ、保護者対応・同僚関係、行事準備など多忙を極め、理想と現実のギャップに直面します。
知り合いに職業を聞かれた際に「保育士です」と答えると、
「うわぁ、いいね!子どもと遊んでいるだけでお給料もらえるんだもんね」と言われた時には、 「はぁあ?!」と怒りが込み上げましたものです。
プライベートでは結婚、出産を経て母親になりました。
産後2か月半で職場復帰し、何とか日々を回していました。
でも、ほんとうはまだ首も座っていない我が子を預け、よそ様のお子さんをみているという葛藤が生まれ始めていたのです。
かわいい我が子の赤ちゃん時代、もっと自分がゆっくり関わりんだと。
でも、この本音は”叶わないもの”と諦めていました。
④30歳2児の母となる。働く母の葛藤が増す最中に起きた《長女の○○事件》で決意したこと
30歳で第2子を出産し、この時も産後2か月半で復帰します。
この第2子の長男は喘息持ちでした。
夜間発作が出た時には、横になると胸がヒューヒューして苦しそうなので、抱っこしながらソファーにもたれ掛かり仮眠のような長い夜を過ごすことも多々ありました。
何より我が子の体調不良で休みをもらったり、早退することにはとても気を遣いました。
保育士1人が休むことは、どれだけ現場が大変になるか、
痛い程わかっていたので余計に苦しかったのです。
少ない我が子との時間を大切に過ごしたい!
手作りの夕食を一緒に食べ、寝るまでの時間は子どもとの時間を最優先。
絵本タイムも欠かしません。
そして寝かしつけ時間は子ども達と共に寝落ちがお決まりに。電池切れです。
深夜に目が覚めた時の絶望感を何度味わったことか…
「あー、やることあるのに、また寝ちゃった。もうこんな時間か…」と、重たい身体を起こし、
夜な夜な持ち帰りの仕事をこなす…それが私の日常でした。
保育士あるあるの、我が子とゆっくり過ごす時間が無いという悩みを抱えつつ、
自分なりに育児も仕事家事もがんばろうと、
葛藤しながら働いていました。
がんばっている自分も好きだったと思います。
母のように忙しくても、我が子のこともしっかり見ているんだという気持ちもありました。
しかし娘が年長さんになったとある日、愕然とした出来事が起こったのです。
いつものように娘の髪の毛を結おうとした時、
「え?何??」
…目に飛び込んできたのは信じがたい”10円ハゲ”。
この瞬間、グッと息が詰まり膝から崩れ落ちました。
「何、これ。」
時が止まり、目に見えていた周りの様子が一瞬で色を失った感覚でした。
今まで一度も感じたことのない感情、感覚…
膝を落としたまま言葉も発せられず、どれ位固まっていたでしょう。
がんばっているって?
それって自己満足?
時間に急かされた生活、弟のお姉ちゃんで無理をさせたり、我慢を強いてきた結果なの?
「なんで…」
「どうして…」
「どうしたら…」
パニックで思考がグルグルして、涙が溢れはじめるとしばらく止めどなく流れ落ちていました。
そして 「今しかない、自分の子育てを大切にしたい」
「少し休もう」
そう心に決めたたのです。
娘の卒園と共に自らも保育園を卒園=退職、35歳でひとつの大きな節目を迎えました。
⑤パート勤務にシフトし程なく、命に向き合う日々。
我が子との時間は宝物。
けれども社会との接点を求め医療事務資格を取得してパート勤務をスタートしました。
勤務先は大きめな小児病院の「小児血液腫瘍科病棟」や「NICU病棟」、小児科クリニック。
保育園で関わってきたお子さんの健康は当たり前ではなかったと実感しました。
働き方を変え、子どもとの時間を優先しながら穏やかに過ごしていけると思った矢先、身内に悲しい出来事が起こります。
父の持病が悪化し、入院し手術に挑むも術後数日後…
病院から急な連絡を受け集中治療室に駆け付けると既に意識を失い危篤状態だった父。
手を握るとぎゅーっと強く握り返してきました。
「この状態で手を握り返せることは無い」と看護師さんに言われたのですが、
父の強い遺志が奇跡を起こしたのかもしれません。
「これからのことは頼むぞ。しっかり生きていけ。」と言われたと思いました。
「受け入れるしかない」と静かで熱い涙が流れました。辛かったです。
厳しかった母との関係を和ませてくれていた父との別れは大きく深い悲しみを伴いました。
程なく今度は同居の義母が病に倒れてしまいます。
検査、入院、手術、通院や生活の見守り、食事の提供。
日に日に弱っていきボケていく義母をギリギリまで自宅介護をしていました。
出勤前に夫と2人で掛かりで入浴させるのはかなりの負担でした。
子育て世代だった30代半ばでは、友達にも介護の経験者はおらず主人と二人で必死の日々でした。
命に向き合う日々でした。
「どうしてこんなに試練が続くんだろう」と思っていましたし、
父、義母のことは、保育士フルタイムからパート勤務にシフトするのがわかっていたかのようなタイミングで訪れた試練だったようにも思いました。
自分の人生に”終わりを意識する出来事”が続いていました。
⑥保育現場に復帰後、産後ドゥーラとなるも、新たな試練…家族の病と介護の現実
義母の看取りを終え、子ども達も成長し少しずつ自分の時間が戻り始め10年のブランクを経て保育現場に復職後、
子育てに何かしらのしんどさを抱えているママが多いなと感じたことが転機となり、
保育士経験20年という節目でママに寄り添う支援を具体化するために、
産後ドゥーラ資格を取得し独立しました。
そんな中、
今度は実母が難病を発症し、見る見る間に介護生活がスタートしました。
ドゥーラの仕事と母の介護を両立していく日々がはじまりました。
午前の訪問(ドゥーラ)→実家(母のお世話)→午後の訪問(ドゥーラ)→実家(母のお世話)→ようやく帰宅。朝、自宅を出てから帰宅してはじめて腰を下ろせる時間が21時!というような日が続き、通い介護と仕事、自宅の家事もという過酷なルーティンを続ける中で、心身の限界を感じていました。
「きつい!でも、私しかやれる人がいない。私が頑張らないと!」
そう自分に言い聞かせ自らを奮い立たせていました。
そして更に追い打ちをかけるかのように夫の体調に大きな変化が…
夫が病魔に冒されてしまうのでした。
朝起きると顔をゆがめて横たわる夫の姿。
その姿が視界に入る食事の時間、今までのように食べ物が喉を通っていきませんでした。
夫のことだけでなく、母のことも有る、仕事だってある。
「自分が倒れるわけにはいかない」と、
もはや味も感じない食事を無理に口に押し込んでいました。
「今度の休みはどこに出掛けようか」
「今日、こんなことがあってね…」
そんな何気ない会話はいつの間にか消え、
夫の口から出てくる言葉は、
「もう終わりだ」
「すべてを失った」
そんな絶望の言葉ばかり。
先のことを考え出すと、胸のあたりがきゅっとしたり、息苦しく感じたり…
「不安」
「怖い」
「どうすればいいの?」
家の中は笑顔も消え、先の見えない不安の中で私はただ必死に過ごしていました。
これまで当たり前だった日常が完全に崩壊し、
夫は思うように動けなくなり、 日によっては起き上がることすら難しい状態に。
入院や休職、そして再発を繰り返し、 長い時間が過ぎていきました。
食事を用意しても、 声を掛け目の前においてあげないと自分からは動けず食べることを試みることができない。
病の不安から「行っちゃうの…」と、か細い声を口にする。
そんな夫を家に残しながら 外へサポートに向かう日々は正直、
心が引き裂かれるような想いでした。
「もう限界だ…」
⑦心の内を吐露できた!そこから心理療法に救われはじめる
心身ともに疲労困憊していたある日、友人に”初めて”弱音を話しました。
すると 胸の奥がふっと軽くなったのです。
「あれ、なんだろう? この感覚…」
それまでの私は、何を頑張っていたのでしょう…
気心知れた幼馴染みにすら弱い部分を見せようとせず、
いつも聞き役に徹していたのです。
その時気付きました。
「1人で頑張らなくていいんだ」
誰かに話しを聞いてもらうだけで 心に余白が生まれまた前を向く力が湧いてくる。
完璧を求めすぎたり、弱音を吐けずに頑張りつづけてしまう今までの私を少しでも手放すことができた経験でした。
ただ、きつく厳しい現実に戻るとまた胸が苦しくなってしまいます。
・ここから、この先はどうしたら良いの?
・何か良い方法があるはず
・心の仕組みを知りたい!!
と思うようになりました。
そして心理講座に飛び込むのです。
今から思うと、 この決断こそが自分の人生を好転させたターニングポイントでした!
それまでの私は、
・辛い、疲れたなんて、絶対に弱音は吐けない
・私がやるしかない
・周りの期待に応えないと
と、いつも自分を奮い立たせ、弱音を吐いたら”負け”とさえ思っていました。
心理講座でカウンセリングを学んでいくと、
・もっともっと自分の心を大切にすることの重要性や、大切にできる具体的な方法
・考え方のクセを整えていく方法
・心の境界線を意識し、誰かに振り回されない方法
・潜在意識の特徴を知り、悪循環から善循環に入って行く方法
などなどを知り、
さまざまな手法を取り入れ 自分の心と向き合うことで
自分の心は置いてけぼりだったことに気付くことができ、
考え方のクセを手放してみよう!と思えたのです。
そうして自分の心を受け止め、
心の安全基地を作っていくことを続けていくうちに
穏やかな時間を感じられるまでに変化が!
仕事をしながら親の介護、家族の病気…と 目の前の状況に変わりは無かったのに、です!!
母の介護は、
「母の所に行かなくちゃ」という ”行かねば”と、義務感のような気持ちはスーッと縮小し、
「次はどんなお楽しみプランを母に提示しようかな」といったように
母との時間を楽しいものにしようと前向きに捉えられるようになりました。
母も笑顔が増え、飲んでいた薬さえ減りました。
そうなってくるともう「行かなくちゃ」という”~すべき思考”はどこへやら…
弱っている夫と過ごす時間も 胸の苦しみははぼ感じられなくなり、
互いを尊重して過ごせるように変化しました。
一番の驚きは、夫の口から出てくる言葉でした。
「いつもありがとう」
「今度〇〇に行きたいね」と、
絶望の言葉から、感謝や希望の言葉へ。
「こ、これはすごい変化だ!!」
驚き以外の何物でもなかったです。
私が変わったから相手が変わった!
自分の心を大切にする。
先ずは自分に優しく。
そうできると私の心が癒されじんわりと温かい気持ちになり、
そのやさしさが循環し始めたのでしょう。
自分を大事にできることは 相手を大事にできることへの近道だったんだ!と
心のサポートの意義を実感していきました。
⑧今までの経験から導かれた、「カウンセラー」としての活動
そして自分に穏やかな時間が戻ってくると、
これまで出会ってきたママたちの姿を何度も思い出すようにもなりました。
・頑張りすぎてしまう人
・一人で抱え込んでしまう人
・頼ることが苦手な人
それはまるで、
過去の自分自身と重なる部分でもありました。
「さまざまな経験はカウンセラーへの道へと繋がっていたんだ」
「心に寄り添うサポートを届けていきたい」
そう思いカウンセリングについての学びを一層深め、
常に自分自身の心の指標としても用いつつ、
カウンセラーとして活動しています。
私はふとしたきっかけで”心の仕組み”を知りたいと思いました。
あの時、知ろうとしなかったら
今もため息の多い毎日を過ごしていたかもしれません。
無理してがんばり続け倒れていたかもしれませんし、
近くにいる”大切な人”に嫌な思いをさせ続けていたかもしれません。
(ゾッとします!)
小さな一歩やほんの少しの勇気で確実に 今や未来を変えられます!
(ぜひ、体験して欲しい!)
自分の心に耳を傾け、
自分を受容しながら、
自分の考え方のクセを整え、
心の境界線を自分で設定していくなどしながら
「穏やかな毎日」を実感しましょう。
自分へのやさしさは必ず循環します。
1人では難しいかもしれません。
「穏やかな毎日」を取り戻せる人を増やしたい。
その想いを胸に寄り添わせていただきます。
これからもひとりがんばり続けて歩んでいきますか?
話しを聞いてみたい
もう少し内容を知りたい
今の自分に合っているか聞いてみたい
穏葉-otoha-ってどんな人?
などと思う方は、是非「お試しカウンセリング」にお越しください。
強引にカウンセリングにお誘いするようなことは一切ございません(^-^)
お会いできますのを楽しみにお待ちしています。
【5/7(木) 添削②回目 提出】
【4/27(月) 添削①回目 提出】
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